特集 〜龍馬をめぐる冒険 Ver.1〜
分岐点
大阪北堀江の市立公文書館の向かい側に土佐稲荷神社がある。もともと土佐藩邸がここに位置し、明治になってから土佐藩士だった岩崎弥太郎がここを本拠地として現在の三菱グループを築き上げた。
すぐ北側には東西に大阪を横断する長堀通りがある。かつてはここに木津川と東道頓堀川を繋ぐ大阪の主要な水路だった西長堀川があり、土佐から運ばれた名産の鰹や木材がここから全国に運ばれていた。今でも大阪の西区には立売堀、土佐堀、京町堀といった地名が残っているが、江戸時代は文字通り商都であり水運の拠点でもあった。
この土佐稲荷神社は現在でも三菱グループと縁が深く、最近神社の本殿が整備され、至る所にお馴染みの三菱のマークが入っている。この神社の整備も含めて三菱グループは最近ホームページでも大阪、特に坂本龍馬との関わりをアピールしていて、ちょうど今日的なブランドイメージ戦略を打ち出しているように思える。ここは、今では近隣の住民にとってちょうど魅力的な広場になっている。
更にこの隣に北堀江アパートという年期の入った公団アパートがある。実はかつてここに司馬遼太郎が住んでいて、真下に見える土佐稲荷神社や目の前の西長堀川を望みながら「竜馬がゆく」を執筆していたとの事。
ところで、司馬の「竜馬がゆく」の冒頭で、竜馬が始めて大阪に出るに当たり、一旦は船で土佐藩邸に向かうものの、藩邸では泊まらずに直ぐに立ち去って八軒屋(今の天満橋付近)の宿に向かい、その途中高麗橋で暴漢に襲われるが、その暴漢が同郷の岡田以蔵だったという逸話が挿入されている。実際にはこの話は司馬の創作だそうだが、岡田以蔵も大阪でも活動しているし、あながちあり得ない話でもないかもしれない。しかしそれはそれ、司馬のユーモアにツッコミを入れるところ。
どのみち、郷士であった龍馬にとって土佐藩邸は必ずしも居心地の良いはずはないだろうから、ここからのんびり大阪の市街を眺めながら京へ向かうために八軒屋へ歩いて行った事は間違いないと思う。かつて龍馬は、どのルートで西長堀川から八軒屋に向かったんだろうか。
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大阪も京都も、他の日本各地の城下町とは違い碁盤の目状に区画整理されてきたが、もちろん今の大阪ではその江戸時代の風情を残す風景は限られる。明治にオランダ人デ・レーケにより淀川が改修されると共に、大きく地形を変えているし、更にその後昭和に入って関一市長の時代に、市営地下鉄、御堂筋、北港計画、大阪城など現在の大阪のベースとなる大規模な都市開発が進められた。しかしそうした華やかな大阪も多くを戦災で失い、そして道路が拡張され、掘が埋められ、今の大阪はほとんど戦後に作られたものといえる。西区や中央区の寺社はほとんど戦後になって修復された。江戸時代から残る建築は僅かに適塾くらいだろうか。強いて言えば、適塾の隣の大阪市立愛珠幼稚園や北浜の旧小西儀助商店など北浜には明治から大正時代にかけての町屋建築が残っているので、この地域のかつての町並みを想像するくらいなら可能だ。
むしろ、かつて関大阪市長が語ったように、通りに町屋が軒を連ねる「瓦の海」のような町だったんだろうと今では想像するしかない。
旧土佐藩邸の場所から西長堀川に沿って歩けば、御堂筋、堺筋を越えて東道頓堀川に突き当たり、そのまま川に沿って北上すれば高麗橋に出る。あるいは木津川に沿ってそのまま北上すれば大川に出て、中ノ島沿いに東に向かえばやはり高麗橋に出る。
高麗橋にまで来れば、すぐに八軒屋に着く。
もし龍馬が大阪の街中を見物ついでに歩き回るのであれば、まず北浜周辺は見逃さかなっただろうと思う。緒方洪庵が適塾を興したのは1845年、近くには大阪の学問の拠点だった懐徳堂、鴻池屋敷もあり、当時は大阪の知的情報の集約地であったはずで、当時であれば大塩平八郎の乱の痕跡もまだ残っていたかもしれない。
土佐堀通り沿いの大阪証券取引所が昭和初期に建築家長谷部英吉と竹腰健三が設計した建物を一部残しながら、近年高層タワーとしてリニューアルされた。今はその大証の正面に五代友厚の銅像が立っている。
大阪では明治初期に活躍した経済人としての五代友厚となるが、もちろん幕末に高杉と共に上海に渡った五代才助である。龍馬と高杉なら誰もが比較したくなる幕末の二代巨頭だが、五代はいつもその脇役扱いにされてしまう。薩長同盟やいろは丸事件など五代は活躍し、この時期の最重要人物の一人ではあるが。
何も明治初期は五代だけが大阪に居たわけでもなく、前述のように岩崎は大阪を本拠地として起業するし、更に陸奥宗光が判事となり、知事には後藤象二郎もいた。更に奇兵隊出身の藤田伝三郎も大阪を拠点としている。特に陸奥は、大阪には縁が深い。
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陸奥も五代も、十分に魅力的な偉人には違いないが、一旦話の流れを龍馬に戻すと、土佐藩出身で大阪、京都に向かうのであれば必然的に陸路ではなく、船の移動が多くなるという事と、水運が土佐藩の経済基盤になっていた事を十分承知していた事は間違いないだろう。とにかく龍馬は船には縁が深い。漠然と土佐で太平洋を眺めながら育ったから、海に憧れたかのように考えがちだが、当時の日本の経済状況を考えてみても、水運は欠かせない主要アイテムであることには違いがなく、恐らく誰であれ海路に可能性を見出すのは間違いなかったと思う。
江戸時代までの日本について、江戸を中心として捉えると、東海道や中仙道など陸路が主要街道だったかのように感じるが、江戸幕府が出来るまでの期間、少なくとも1000年近く瀬戸内海と淀川が日本の物流の主要路であった。経済発展という側面で見れば、戦国時代の混乱期には堺が象徴だが、水運は何も海路に限った話ではなく、淀川を通じて内陸の京都まで如何に物資を安価に運ぶかが重要な問題になる。この淀川の水路は京都市内の高瀬川開削を手がけた角倉了以とその子素庵をはじめとして、近世の京都、大阪の経済基盤を確立したといえる。また大阪の土佐藩屋敷も京都の土佐藩屋敷もこの淀川〜高瀬川沿に位置していた。
「藤の花 今をさかりとさきつれど 船いそがれて 見返りもせず」
龍馬が淀川を三十石船で京都に登る際に歌ったとされている。あまりに生き急いだ龍馬の生涯を象徴するような歌と評されるが、むしろ当時の淀川でみられた水運のエネルギーや、その経済活動の活発さに着目することも出来るかもしれない。
常に日本の最も主要な水路で水運の中心だった淀川沿いに龍馬の足跡を改めて眺めていくと、案外また別の龍馬の姿に迫ることができそうに思う。
夕方、天満橋駅から谷町通りを南へ向かうと直ぐにライトアップされた大阪城が見える。水路としての淀川を考慮しないと、大阪城の立地も今となってはその理由が伺えない。現在では桜の綺麗な大川沿にある観光名所のひとつの大阪城であり、大川の緩やかな流れを眺めながら、のんびり幕末を思い耽るのに丁度良い。