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特集 〜龍馬をめぐる冒険 Ver.2〜


淀川を上って
 秀吉の命により文禄堤が出来てから、伏見、枚方、守口など、淀川に沿って旧京街道には宿場町が点在するが、宿場町になる以前から、古くは仁徳天皇の古墳時代にまでこの地域は遡ることができる。

 門真市には、日本書紀や古事記にも記されている茨田(まんだ)の堤と呼ばれる史跡が残され、枚方市の北部は、今は開けたニュータウンだが、継体天皇が即位したと言われる葛葉宮の跡地が伝えられていて、今でも樟葉と呼ばれている。 これらはどちらも伝承として残されている史跡で、確実な史跡とされるのは大阪城のすぐ南にある難波宮くらいだろうか。
難波宮は過去に三度も造営されたとの事だが、現在の遺跡はそのうち650年に造営されたものの上に改めて726年に造営されたものの遺跡である。

 古代には、一時的ではあるがここに首都機能が移された時期があった。ただしかつての首都といっても、古事記や日本書紀に記されている期間を除けば、僅かな期間に過ぎない。京街道の整備は秀吉の時代に遡るが、陸路としての整備がこの時に行われたものであり、古代から中世にかけては陸路よりも淀川を使った水路が主流だったといわれる。
 また大阪の八軒屋、今の天満橋のところから熊野古道が始まっていた。熊野古道は平安期から鎌倉時代に最盛期を迎えるが、菅原道真公や安倍晴明、渡辺綱などこの当たりに縁のある人はこの時代には少なくない。

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 ところで、私事になるが、うちの事務所の所員がこの京阪沿線に住んでいて、もともとこの所員の発案から歴史コンテンツサイトを始めようという話になった。昔から歴史に興味があったという訳ではなく、テレビの新撰組を見て幕末の歴史に興味を持ち、色々と本を読み進めるうちに坂本龍馬に関心が移ったそうである。

司馬の「竜馬がゆく」を読んでみて、馴染みの地名やよく知っている場所が案外出てくる事に親近感が沸いたそうだ。司馬は大阪の人なんだし、それは「竜馬がゆく」を書いていた頃の大阪や京都や、京阪沿線の風景とオーバーラップするという意味?とは訊ねてみたが、別にそこまで深く考えた訳でもなく、ただ漠然と幕末の動乱が身近な場所で起きた出来事だと気付いたらしい。

 ところで京阪線に乗って天満橋から京都四条まで向かったところで、あまり古い町並みが見える訳ではなく、むしろ郊外のニュータウンを突っ切る光景しか見えない。もちろん淀川に昔の風情を感じることはほとんど不可能だし、もとより京阪沿線は関西の大都市から拡がるベッドタウンである。車窓から見えるものはせいぜい淀城跡の石垣くらいで、多少瓦屋根の伝統家屋が見えるが、この辺りは大正期位まで土蔵など普通に作られていたので特に珍しくはない。樟葉も寝屋川も開発されたのは昭和初期の頃からだが、今でも開発され発展を続ける郊外型ニュータウンである。要するにニュータウンと隣接する形でほんの一部が旧街道沿いに古い宿場町の風情が残されている。

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 大坂京都間(約44.8km)は陸路でも急ぎで1日の距離で、その間に四箇所の宿場があったということは往来が多かったは違いない。ちなみに淀川を使うのなら、当時は三十石船の往来が盛んで、早朝に大阪を出れば夕方には京都に着いたそうである。その丁度中間地点に枚方の宿場があった。枚方はもちろん今では純然たるベッドタウンだが、立地条件から三十石船の休憩地でもある宿場町として発展してきた経緯がある。

 枚方の「くわらんか船」については、京街道街歩きMAPの方に任せたいが、野卑な掛け声だけでなくこの頃の枚方の宿が持っていた活力、逞しさや強かさは強調しておきたい。
 今では大都市に挟まれて枚方の独自性を見出す事が困難であるだけに、もう一度歴史を見つめ直して本来の立地条件を活かした新しいアクションが最も地域性を発揮するのではないかと、よくうちの所員とも話をする。

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 枚方宿を過ぎると、かつては淀、そして巨椋池に面して京都への入口である伏見宿へと続いていた。

 龍馬に限らず、幕末の志士にとって、もっぱら京都へ行く際の常宿が伏見の宿であり、まずは今の現存する寺田屋を取り上げない訳にはいかないだろう。陸路も当然使われただろうが、もちろん龍馬にとっては三十石船による移動が非常に多かった事だろうと思う。どちらにしろ大阪を早朝に出れば夕方くらいには伏見に着いたものと思われる。八軒屋の周辺で一泊して次の宿泊は寺田屋だったんではないだろうか。

 伏見は戦後になって淀川の水運も衰退し、巨椋池の埋め立て後は文字通り陸の孤島となった事でかえって宿場町の風情が残った。もちろん全国区の酒造メーカーが連なる場所ではあるが、観光地として知名度を高めているのは酒蔵の存在や高瀬川の景観よりも寺田屋が今も当時のまま残っていることだと思われる。

 伏見を過ぎると、町並みが何となく京都らしく感じ始める。
 幕末の騒乱以後は徐々に落ち着きはじめ、寧ろ観光地として存在感を高める戦後の高度成長期を迎えるまでは、むしろ衰退といって良いほど静か過ぎたが、実際の京都は騒乱を引き起こすに足るだけの深くミステリアスな古都だ。


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門真市にある堤根神社
この神社は、茨田堤に由来する非常に古い神社といわれ、神社裏手に伝茨田堤の遺跡とされる場所が残る。


堤根神社境内にある伝茨田堤跡碑


伝茨田堤跡は現在楠木が生い茂っている。


近くを流れる古川から見た伝茨田堤跡




かつて葛葉宮があったとされる樟葉駅前は、現在では賑やかなニュータウンとなっている。


樟葉の高級住宅地




淀駅から見える淀城跡


城跡には、明治に入ってから与杼神社が移されている。


淀川(桂川)沿に旧鳥羽街道があったが、街道沿に民家が立ち並ぶ。


淀駅付近から見た淀川(桂川)
京都の入口だった伏見はもう直ぐ




伏見の酒蔵


三栖閘門
かつては淀川水運の重要拠点でもあった。



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